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カサブランカ [ミュージック]



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――「これは俺の仕事だった」という最初の作品は?
キッスが最初だったような気がするなあ。ニール・ボガードが来て、カサブランカと契約したのが75年。僕が担当になった。僕は正直、同時期に取ったキャプリコーンの方をやりたかったんだけど、エレクトラが切れたのと同時期だったんで、エレクトラ担当だった小森信治さんがキャプリコーン担当になった。
キッスはすでに3枚のアルバムを発表していました。日本では契約がなくて、1、2枚目は輸入盤しか出てなかったんです。3枚目の最新作『地獄への接吻』を75年8月に出して、直後の10月にライヴの2枚組『地獄の狂獣』。このタイトル、中村とうようさんに叱られたんです。「狂獣なんて日本語はない」って。76年に4枚目『地獄の軍団』のあと、1枚目『地獄からの使者』、2枚目『地獄のさけび』を続けて出した。
ロサンジェルスのカサブランカから送られてくる写真や資料が少なくて、ニューヨークのキッスの事務所に直接依頼して、ファン・クラブの「キッス・アーミー」が作る漫画みたいな雑誌なんかを送ってもらってました。事務所からは、「ファン・クラブは大事にしなさい」と。
当時は公認ファン・クラブを作りたいって人がいっぱいいたんですけど、ミーハーもお金目当ての人もいて、危ない。で、面談をして、ある学生を公認に決めたんですが、ここが7年間も非常によくやってくれた。会員は最高時で1万人。ベイ・シティ・ローラーズだってそんなにいなかったはずです。会報は年4回。向こうからのニュースや歌詞を訳したり。一時は印刷業者さんの請求額がビクターよりファン・クラブの方が多かったみたいなことがありました(笑)
75年にファン・クラブの17、18人とアナハイムにコンサートを観に行きました。カサブランカにメンバーとファン・クラブを会わせるセッティングを依頼して。あと簡単なパーティも。僕は必死でした。ロック好きな女の子たちですからね。夜にタワーレコードに行きたいとか、キッス以外のライヴも観たいとか、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーに行きたいとか。ほとんどが未成年なんで、気苦労が多かった。

――キッスはどういう人たちでした?
みんな個性があって面白かったですね。77年3月の初来日の時は、ウドーにいた寺林晃さんから電話があって、「契約書が100ページくらいある」って。火を使うから消防法のこととか、警備の問題とか。それからアメリカのマスコミを何十人動員するから、そのケアをビクターでやれとかね。素顔を撮られた場合の保障問題とか。連中もコンサートが終われば素顔で六本木とかに遊びに行く。その時にガードマンが一人ずつついて守った。
面白いのは、当時外人は名刺交換なんてやらなかったのに、キッスはメンバーもマネージャーも全員が日本語の名刺を向こうから持って来てたんですよ。

――「住所・米国ニューヨーク州ニューヨーク市」。せっかくなら「紐育」って書けばもっと良かったのに(笑)。彼らのこの日本通ぶりってのは何なんでしょうね。歌舞伎メイク、血潮とか。
聞いたことないですね。でもアイディアとしてはすばらしい。

そのほか、濃密につき会ったのはエンジェルですね。リーダーがキーボードのグレッグ・ジフリア。ハード・ロック&プログレ・バンド。ルックスが良くて日本でスターになる要素がある。来日はウドーさんと武道館でやりたいな、なんて。ところが、彼らのマネージャーは名古屋のプロモーターと契約しちゃった。ギャラが高いから。名古屋のトヨタ・アーティストっていうんで、自動車のトヨタ系だと思ったら全然違うんです。契約がまとまった段階でその人たちがビクターに打ち合わせに来たら、スタッフが素人4人だけなんですよ。通訳も英語の元先生か何かで、音楽関係のビジネスの経験が全くない人たちでした。
エンジェル側はハッピーだったんです。ギャラも来日前に半分もらってるから。でも最終的にトラブルだらけ。ライヴは広島、大阪、福岡、東京と来て最後がトヨタのある名古屋。でもどこも全然客が入らなくて、残ったギャラの半額が払えそうにない。武道館だけはけっこう売れてて、といっても二日やって5、6000人くらいかな。で、彼らは武道館の後、名古屋に行かないで羽田から帰国しました。

――事前にカサブランカからトヨタ・アーティストについての問い合わせはなかったんですか。
ありましたよ。調査もしました。でも「ここと契約はするな」とは言えないですよ。それをファックスでやっちゃうと大トラブルになるんです。営業妨害。トヨタ・アーティストは契約交渉の前に『ビルボード』に1ページ広告打ってるんですよ。
イギリスのアイドル・バンド、フリントロックも79年のライヴは不入りでした。雑誌とのタイアップなんかでずいぶん宣伝したんですけど。

――ベイ・シティ・ローラーズが売れて、フリントロックが売れなかった理由は?
ロックは互いに競争して売れる。それに対してアイドルはどちらかの一人勝ちになる。これがアイドルの宿命なんです。ベイ・シティはタータン・チェックとかファッション連動の戦略がうまかった。フリントロックはTシャツなんか着てて、おしゃれじゃなかった。

レコード・コレクターズ2014年11月号「洋楽マン列伝No.55」から、日本ビクターでカサブランカやヴァージンなどのレーベルを担当した横田晶氏のインタビューの(お手軽)引用です
カサブランカの稼ぎ頭はもちろんキッスですが、私的にはカサブランカで最も強烈なのはエンジェル
キッスなら怪獣着ぐるみ装着していてもメイクで顔がわからないからいいけど、エンジェルの天使白装束は素顔がわかるからもっと恥ずかしいだろという、パフォーマーの立場に寄り添った親身な理由によります
エンジェルはその後(日本では)あっ気なく失速しますが、そのきっかけとなった「事件」の真相もわかり、横田氏のインタビューはとても興味深く読めました
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天使の美学 紙ジャケット仕様

続きもどうぞ

――カサブランカにはディスコものもありましたね。
契約時には黒人系はパーラメントのみでした。ドナ・サマーは1年後くらいかな。ドナ・サマーはニューヨーク出身だけどもともとドイツにいたんです。プロデューサーはドイツにいたジョルジオ・モロダーで、最初のアルバムが『愛の誘惑』。スキャット風で、歌詞がなくてほとんどため息だけなんです。売りにくかった。当時はモロダーもメジャーじゃなかったし、だからキャバレーのテーマ曲にしようとしたんです。若干卑猥なため息っぽいやつだし。キャバレーのチェーンとかにサンプル置いて回った。オープニングやショー・タイムの時間帯に流してもらうとか。でも手応えは全くなかった。音楽聴きに来る客じゃないんだ(笑)。だからブレイクのきっかけはわかりません。大ヒットした79年の「ホット・スタッフ」は完全なディスコですよね。当時の宣伝担当は本多慧、通称ハッスル本多。ディスコを仕切ってる人にダンスの振り付けを考えてもらって、そのイラストをシングル盤のジャケットに入れて、都内のディスコに行って、ハッスルが自分でフロアに出て指導してました。

――ディスコものはアルバムは売れないと言いますが。
そんなことはありません。ドナ・サマーはアルバムも売れました。ただ、遡って以前のアルバムを買う人はいない。そこはロックと違いますね。基本は音とその時代の流れですから。だから子供たちはディスコ時代を過ぎちゃうと、もう見向きもしないですよ。ほかにディスコものでは「フライ・ロビン・フライ」のシルヴァー・コンヴェンションは西ドイツのマイナー・レーベル。「ハロー・ミスター・モンキー」のアラベスクもそう。ドイツにいるアーティストは世界市場への志向が強いですね。ドイツ語と英語と2ヴァージョン録音する人もいますしね。イタリアやフランスにはほとんどいないですよね。

「今日の1曲」は、迷いましたが…

79年にイギリスのアリオラ・ハンザというレーベルから送られてきたのが、サラ・ブライトマン&ホット・ゴシップのシングル「遙かなるスターシップ」。日本でも発売しました。

――イントロが「ツァラトゥストラはかく語りき」で、すぐ電子音の典型的なテクノ・ディスコ。このヴォーカルが後のあのサラ・ブライトマンになろうとは。
その少しあと、ロンドンでサラが『キャッツ』に主役で出ていると聞いて観に行きました。それから彼女はアンドルー・ロイド・ウェバーと結婚した。彼女にとっては、ディスコはミュージカルやロイド・ウェバーに出会うまでのワン・ステップだったんですね。

サラ・ブライトマンがアリオラ・ハンザ(JAPANも在籍)にいたとは…ということで、その問題作です
I Lost My Heart to a Starship Trooper 「遙かなるスターシップ」/ Sarah Brightman & Hot Gossip
https://www.youtube.com/watch?v=kgW9l7CR1WQ
見ているだけで、かなり恥ずかしいです
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マイ・ライブラリーから
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ラ・ルーナ
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青い影 / ア・クエスチョン・オブ・オナー Maxi Single
他に、『アンドリュー・ロイド・ウェバー・ソング・ブック』、『アンドリュー・ロイド・ウェバー・ソング・ブック 2』、『アヴェ・マリア ~サラ・ブライトマン・クラシックス~』も発見
意外とあったんだ(笑)

なお、横田晶氏はその後ヴァージン・ジャパンの設立にも関わったということで、そのインタビューもいつか掲載するかもしれません

次回は、レコード・コレクターズ2014年11月号特集「日本の女性アイドル・ソング・ベスト100」トリビュート記事になる予定です

P.S.
カサブランカ(Casablanca)とはスペイン語で「白い家」という意味だそうで…イタリア語のカーザ・ビアンカ(Casa Bianca)と同じだということに今頃気づきました

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コメント 2

sknys

カサブランカ・レコーズから1枚選ぶとしたら、引用文中にもあるParliamentの《Trombipulation》(Casablanca 1980)でしょうか。
George Clinton総帥が「サー・ノーズ」に扮したアルバム・カヴァは
インパクトありました。
♪ゾウさん、ゾウさん、お鼻が長いのね。そうよ、サー・ノーズも長いのよ^^;
http://store.universal-music.co.jp/contents/shop/um/img/goods/G10/UICY-77158.JPG
by sknys (2015-11-25 23:10) 

モバサム41

sknysさん、あけましておめでとうございます
ゾウさんは、お鼻が長いですが、
sknysさんは、鼻の下が長いのでしょう
きっと(笑)
by モバサム41 (2016-01-03 19:03) 

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