ヒロシマ・モナムール [ムービー]
まずは、新聞記事(2008年6月11日)の引用から
復興の広島 一挙500景
今から半世紀前。映画「二十四時間の情事」が広島で撮影された。映画史の古典となった日仏合作で、アラン・レネ監督、主演は岡田英次(95年死去)とエマニュエル・リバ。リバさんは今もパリで元気で、自宅から先ごろ、当時の広島で撮った写真約500枚が出てきた。腕前と資料性はともに高く、専門家も関心を寄せる。
写真発掘の端緒は東京日仏学院の元院長マリークリスティーヌ・ドナバセル、哲学者ドミニク・ノゲーズの2氏が作った。2人はこの映画の脚本を書いたマルグリット・デュラスの研究家。デュラスの資料を読み込み、リバさんが写真を撮っていたと知った。
2人は昨春、パリでリバさんに会い、記者も同席した。カフェに現れたリバさんは、時間が止まったように若々しい。2人が写真のことを問うと「実家の段ボールにあるはずだけど、たいしたことはないと思う。小さな写真だし」と関心は薄いようだった。
2人は懇々とリバさんを説得し、ついに写真を詰めたトランクにたどり着く。それは屋根裏に50年、開けぬまま放置されていた。
半世紀前 映画撮影で来日
今年1月、トランクを開ける場に、写真家・評論家で多摩美術大教授の港千尋さんが同席した。広島を題材に作品を制作する美術家・岡部昌生さんが情報を伝えてくれたからだ。「すぐに写真が素人離れしていると分かった」と港さん。ネガや、撮影機材のリコーフレックスの六六判のカメラもリバさんの実家にあった。ネガは映画保存機関シネマテーク・フランセーズに搬送、デジタル化された。
リバさんの話では、共演の岡田の広島入りが別の映画の仕事で遅れ、待つあいだに撮影したという。500枚には映画の記録係らが撮ったものも交じっている。
(左上)広島の子どもたち
(右上)市内を流れる太田川。奥には前年完成した市民球場が
(左下)町中のバラック
(右下)仏映画「抵抗」を上映する映画館。左はアラン・レネ監督と記録係のシルベット・ボドローさん
原爆投下から13年。悲惨な痕跡は撮らず、未来へと生きる人々を選んで撮ったように見える。被災者たちのバラックでの暮らし。はじける子どもの笑顔。完成間もない市民球場や再建された広島城も背景に映り、資料価値も高い。
港さんは「クローズアップと遠景の組み合わせなど、正統な50年代の写真美学が息づく。路上のスナップショットという点でロベール・ドワノーにも劣らない」と言う。写真を見た広島市公文書館の高野和彦館長は「ちょうど広島市の人口が戦前のピークを超えた復興の年。被災者の多くが住んだバラックの写真は珍しい」と語る。
(左上)広島の子どもたち
(右上)子どもたちの川遊び
(左下)「どーむ」という名の喫茶店。映画の後半で舞台になった
(右下)砂利を運ぶ人々
写真は12月に東京の銀座ニコンサロン、広島県立美術館と広島市のギャラリーGで展示。フランスでガリマール社、日本ではインスクリプトが写真集を刊行する。
ドナバセルさんらは写真集の題名を、映画で岡田が言う最初のセリフの「君はヒロシマで何も見ていない」にしたい、と話す。リバさんは「最初の主演映画が生涯の代表作になった。ヒロシマ・モナムール(映画の原題で『広島、わが愛』の意味)の思いは50年、続いてきた」と語っていた。
(引用終わり)
そうそう…
「雨のしのび逢い」や「かくも長き不在」の後、この作品も探したんでした
デュラスの関わった映画なんていくらでもありますが、この作品は監督がアラン・レネってことだったので、邦題の相変わらずのセンスのなさ、安っぽさに辟易しながらも、とにかく手に入れなければ、という気になったのでした
でも、結局LDは出ていなくて、私の願望はそのまま途切れ、いつしかこの作品のこともすっかり忘れてしまった…
そんな行方知れずになっていた作品が、こうして再び私の前に姿を現すとは思ってもいませんでした
8月6日です
今日の1曲
HIroshima 「ヒロシマ」/ Utopia
http://jp.youtube.com/watch?v=idHTOeN4pEo
太陽神 (紙ジャケット仕様)
今日の1曲に反応してしまいました。
ユートピアってトッド・ラングレンのですよね?
トッド・ラングレンのソロは結構持ってるんだけど、ユートピアのって、2枚くらいしか持ってなかったのよなぁ・・それもレコード。
この曲は知りませんでした~。
ので、youtube行って聞いてきま~す。
by 華龍 (2008-09-01 00:55)
華龍さん、コメントありがとうございます。
レス遅れて大変申し訳ありません。
ユートピアの曲は、いまいち垢抜けない…一流になれなかったのも詮無きことかなと思ってしまいます。
by モバサム41 (2008-09-07 21:38)