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ハイドリオタフィア [ブック]




 「朽(く)ちざる墓に眠り、伝わる事に生き、知らるる名に残り、しからずば滄桑(そうそう)の変に任せて、後(のち)の世に存(そん)せんと思う事、昔より人の願(ねがい)なり。この願のかなえるとき、人は天国にあり。されども真(まこと)なる信仰の教法より視(み)れば、この願もこの満足もなきが如くに果敢(はか)なきものなり。生きるとは、再(ふたたび)の我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願にもあらず、望(のぞみ)にもあらず、気高き信者の見たる明白(あからさま)なる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横わるはなお埃及(エジプト)の砂中に埋(うず)まるが如し。常住(じょうじゅう)のわが身を観じ悦(よろこ)べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟(たいびょう)と異なる所あらず。なるがままになるとのみ覚悟せよ」
 これは『ハイドリオタフィア』の末節である。三四郎はぶらぶら白山(はくさん)の方へ歩(あるき)ながら、往来のなかで、この一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、この著者は有名な名文家で、この一篇は名文家の書いたうちの名文であるそうだ。広田先生はその話をした時に、笑いながら、尤(もっと)もこれは私(わたし)の説じゃないよと断られた。なるほど三四郎にもどこが名文だか能(よ)く解らない。ただ句切りが悪くって、字遣(じづかい)が異様で、言葉の運び方が重苦しくって、まるで古い御寺を見るような心持がしただけである。この一節だけ読むにも道程(みちのり)にすると、三、四町(ちょう)も掛った。しかも判然(はっきり)とはしない。

17世紀の英国人作家(兼医師)サー・トマス・ブラウンの『ハイドリオタフィア』(骨壷埋葬)が紹介されていましたね
でも、小川君にもはっきりとはしないのだから、現代人にはもっと厄介だろうということで、もう少しこなれた口語訳も掲載しておきます
金沢大学学術情報リポジトリからの拝借です

 墓に入って後代に残ること、何かを造り上げて名を残すこと、名前のみが伝えられること、あるいはキメラのごとく伝説として生きること、これらは古の人々を大いに慰めるもので、彼らにとっての至福の一部を成していた。だが、真の信仰の原理に照らしてみれば、全ては空しくなってしまう。真に生きることは、自分自身に再び回帰することであり、それこそが高貴な信仰を持つ者の希望であり、その証しでもある。聖イノケンティウスの教会墓地に横たわろうと、エジプトの砂漠に横たわろうと変わりはしない。永遠の存在となることに恍惚となれば、どのような処遇を受けたところで構いはしない。六フィートの地中に葬られようと、ハドリアヌス帝の墓廟に納められようと、いずれも本望なのである。

ルカーヌス
…亡骸が朽ちようと
 焼かれようと、構いはしない…

血気盛んな若者がわかってはいけない文学なのかもしれません

今日の1曲
Hyperborea 「ハイパーボリア」/ Tangerine Dream
https://www.youtube.com/watch?v=Obukg_6thhE
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ハイパーボリア
とっても悠長な音楽です
もうちょっと盛り上がるのかなあと思っていたら、そうでもなく終わってしまいます
骨壷の中で反芻しながら聞くにはちょうど良いサウンドなのかもしれません(笑)


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