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アリオラ・ハンザ [ミュージック]




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アリオラ・ハンザにあのサラ・ブライトマンが在籍したことは、以前の記事「カサブランカ」で紹介しましたが、今回はその続編
レコード・コレクターズ2014年12月号「洋楽マン列伝No.56」から、横田晶氏のインタビューの後編です

――当時で一番印象に残っているのは?
ジャパンとの出会いですね。ボニーMで成功したドイツのアリオラがイギリスで作ったアリオラ・ハンザってレーベルに、ジャパンがいた。ルックスがいいから日本の雑誌にも載り始めてて、輸入盤が売れていた。契約してすぐにロンドンに行って、彼らに「俺はアイドルっぽいイメージでは売りたくない」と言ったんです。彼らも同意してくれた。日本ではきっと「どうしてジャパンって名前をつけたんだ」と聞かれるから、「日本にはさほど興味はない。たまたまそういうグループ名にしたんだ」と答えようと。フリートウッド・マックみたいな長い名前じゃなく、「シンプルだからつけたんだ」みたいなね。契約前から騒がれてて、ある程度地盤ができていたから、「日本好き」みたいな初歩的な売り出し方はしなくていいと考えたんです。写真も日本的なイメージは駄目。浴衣を着せたいという企画とか、お寺をバックに撮るとかは勘弁してくれと。

――デビュー・アルバムは78年10月の『果てしなき反抗』。原題は“Adolescent Sex”で”青い性”なんですね。アルバムは『苦悩の旋律』『クワイエット・ライフ』『孤独な影』。曲名では、”Suburban Love”を”愛の回転木馬”。”Transmission”を”魅惑への招待”。意訳というよりイメージ先行ですね。
難解な歌詞が多かったので、わかりやすく説明するタイトルと、逆に考えさせるようなタイトルの両方。その後のヴィジュアル系に通じるような耽美的なイメージですよね。
デイヴィッド・シルヴィアンとはロンドンでよく食事しました。映画の話題になった時があって、その日観た『ミッドナイト・エクスプレス』は「すごくハードな作品で最高傑作だ」と。でも当時外国でだけ上映していた大島渚監督の『愛のコリーダ』については、彼は「ポルノ映画じゃないか」って言うんですよ。あれは芸術作品じゃないと。ところが何年か後、彼が大島渚の『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲を歌うようになっちゃった。不思議なもんですね。
デイヴィッドっていろんな質問をするんです。「今、何に興味あるんだ」とか「お前の人生は何だ」とかね。それで何にでも感化されやすい。「今、ロシア音楽に凝ってるんだ」「これ聴いてみろ。俺が一番気に入ってるサウンドだ」って、飛行機の中でカセットを出したり。でもそういうところを人前で見せたがらないタイプ。普段はミュージシャンっぽい。演技してるとは思わないけど、素顔は出さないですね。レストランなんかでもインテリっぽい態度しますね。恰好はつけてるかも。83年に会った時は僕の結婚10周年で、結婚についてカフェで語り合った。「10年も仲のいい夫婦でいられるなんて、信じられない」なんて言ってました。「俺は50歳で死ぬと思う。それまでに好きな人生を歩んで、世界のあらゆることを体験したい」みたいなね。
ミック・カーンは一人だけギリシャ人で、彫刻をやっていた。その個展をロンドンで開いた時に場所探しの相談に乗ったのが在英の日本人の女性カメラマン。デイヴィッドも彼女にポラロイドの撮り方を習ったんです。一緒にインドに行ったり。で、二人で彼女の取りっこになった。それで解散したのかも(笑)

――彼女の存在は日本のファンの間でも有名だったようですね。話は変わりますが、ファン対策も大変でしょう。
はい、女の子がみんなグルーピーに見えちゃって、ノイローゼになったこともあります。ジャパンじゃないけど、ライヴが終わってバンドが車1台でホテルまで帰るのをファンがタクシー3、4台で追って来て、それをまこうとして首都高速を4周したことがあります。ホテルのフロアは借り切って、1室に僕らも泊まる。ガードマンもいるけど、ファンも部屋をとっているので、廊下までファンが来ちゃうことがあるんです。僕、廊下で寝たこともありますよ。

今日の1曲
Adolescent Sex 「果てしなき反抗」/ JAPAN
https://www.youtube.com/watch?v=GmL7ZpveTec
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アセンブラージュ 紙ジャケット仕様
人気絶頂期の81年にリリースされたアリオラ・ハンザ時代の総括的作品集(英国編集盤)

こちらのHPもどうぞ
http://www.davidsylvian.com/

オマケでカルチャー・クラブです

――ジャパンはアリオラ・ハンザからヴァージン、BMGと移籍したけど、横田さんも同じ動き方をしたから、ずっと離れてないんですね。ヴァージンにはカルチャー・クラブもいましたね。
非常に苦労させられた、たいへん疲れるバンドでした。チーム・ワークが悪くて、しょっちゅう喧嘩をしてました。人気が出る前はバンド自体苦労したと思うんだけど、ボーイ・ジョージだけ人気が出ちゃって、インタヴューでもカルチャー・クラブ=ボーイ・ジョージみたいなね。まあボーイも目立ちたがり屋ですし。日々ライヴやってつき合ってるといろんな亀裂みたいなのが出来るんでしょう。来日前日にボーイ・ジョージが「テレビにしか出ない」と言い出した。ところがこっちは新聞のインタヴューをブッキングしちゃってる。ヴァージンでもコントロールできない。仕方なくうちのスタッフを香港にまで飛ばして、そこでマネージャーを通じて説得して、次の日に一緒に日本に入った(笑)。新聞1社のために。

次回は、いよいよヴァージン・ジャパンです


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