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音楽のカテゴライズに逆らって(2) [ミュージック]




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音楽のカテゴライズに逆らって(1)
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『へるめす』 第37号 岩波書店 1992年5月8日発行より

作品タイトルの意味
武満 ところで前作のアルバムのタイトル『レイン・トゥリー・クロー』というのはどういう意味なんですか?
シルヴィアン とくに意味はありませんが、ベケットの舞台装置(ステージ・セット)のような、とてもグラフィックなイメージを求めたものです。タイでしたか、影絵の人形芝居がありますね。影絵では、影を見るには暗闇のなかにも光が必要であって、光を通して治癒力が発揮されるともいいますね。
武満 ぼくの本読んで欲しいな(笑)。影絵については、ぼくも書いているんですよ。今年の秋にアメリカからその翻訳が出版されるから、そうしたらぜひ読んでください。
シルヴィアン また偶然の一致がありましたね。
武満 ほんとうですね。その本のタイトルは『樹の鏡、草原の鏡』といいます。バリの寺院での影絵(ワヤン・クリット)について書いたのは「影絵の鏡」という章でしたが、主として東洋や日本の音楽について書いた章は「磨かぬ鏡」といいます。ちょっといたずらですけれど、実はそれは逆さまから読んでも同じなんです。「みがかぬかがみ」(笑)。ぼくは文章が専門ではないから、文章書くときはいろんなイタズラをするんです。言葉遊びはほんとうに面白い。
3人の打楽器奏者のための『レイン・トゥリー』というぼくの曲を知ってますか?
シルヴィアン もちろん知っています。
武満 あれは、イェール大学に8週間ほど招ばれて教えに行ったことがあったんですが、そのころ毎朝カミソリで髭をそってて、使っていたシェービング・クリームが「レイン・トゥリー」という名前だった(笑)。とてもそれが気に入ってた。「レイン・トゥリー」を買いこんで日本にもって帰ってきた。そうしたら同じころに大江健三郎さんが『「雨の木(レイン・トゥリー)」を聴く女たち』という素晴らしい小説を書いていたんですね。
あなたは、どういうふうにしてタイトルを見つけたりしますか?
シルヴィアン ロバート・フレボウィッツが言うには、音楽作品には必ずそのタイトルがあって、そのタイトルを探しだせばいい。
武満 ぼくもそう思う。
シルヴィアン 何か一つのエッセンス、香水に名前をつけるような……。
武満 ぼくのタイトルは日本では評判が悪いんだよね。
シルヴィアン タイトルというのは非常に大事だと思うんです。よく抽象画で「無題1」「無題2」とか書いてあるが、すごく腹が立つ(笑)。なんか画家が投げちゃっているんじゃないかと思う。
武満 そうぼくも思う。どうして無題にナンバー・ワンとナンバー・ツーがあるのかよくわからないな(笑)。

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David Sylvian
1958年2月、ロンドン生まれ。75年より82年まで「JAPAN」のヴォーカリスト&コンポーザーとして活躍。83年よりソロ・アーティストとして活動。写真家、ビデオ制作と言った音楽以外の活動でも注目を浴びている。90年9月、「東京クリエイティヴ’90」では、品川・寺田倉庫にて、ラッセル・ミルズとともにインスタレーションを行った。

美と現実について
武満 たしか、デヴィッドのオフィスの名称は、「オピウム」? あれはたぶん「阿片」という意味だろうと思うけれど、ジャン・コクトーと関係ありますか?
シルヴィアン もちろんあるんです。
武満 最近若い人たちは、日本でもそうなんですが、ジャン・コクトーやボリス・ヴィアン等を、またずいぶん読み始めている。ごくたまにだったけれど、デヴィッドからはがきをもらうと、ジャン・コクトーのデッサンの絵はがきで、たぶんこの「オピウム」というのはジャン・コクトーと関係あるのだろうと長いこと思っていたけれど、ジャン・コクトーについてどう考えているのか一度聞いてみたいと思っていたんです。
シルヴィアン ぼくは12年ほど前に、人生がすっかり変わった時期があったんです。自分がなぜこういうことをしているのだろうかとか、自分の音楽とか生き方にいろいろな疑問をもち始めた時期だったんです。ぼくはいつも美とかロマンを追求していて、あまり現実的ではありませんでした。コクトーと出会ったのがちょうどそのころで、コクトーはロマン派でありながら、非常に現実的な要素がありました。ぼくは彼から現実における美というものを学んだ。逃避としてのロマンではなく現実のなかのロマンを尊ぶようにうなって、いまは逃避としてのロマンを非常に嫌うようになりました。
多くの芸術家は幼年時代が不幸であったりして、自分の幼年時代が不幸だったからこそ美しいものをつくりたい、子どものときになかった美を自分でつくりたいと思う。それで美をつくりたいという欲望が、どんどん現実の世界から離れた遠いほうに導いていくと思うのです。
ぼく自身も子ども時代はとても不幸で、ぼくは自分の頭のなかで自分の世界をつくってしまいました。存在はしないけれども、自分の世界はこうあるべきだという世界をつくってしまったんです。現実のなかにあるほんとうの美の源を見つけるのにかなり時間がかかってしまいました。それまでは現実に自分が落胆すると、頭のなかにある美を追求して逃避をしていたのですけれども。
ぼくの作品を聴いた人からよく手紙がくるのですが、彼らはどちらかというと、ぼくの作品を現実逃避として見ているんです。ぼくがつくった世界を自分たちの逃避のために利用し、その作品も現実逃避であると解釈するのですが、ぼくはこのように誤解されるのは大変不満です。ぼくは決して現実から逃避しようというのではなくて、現実のなかに存在する美をあらわそうとしているにすぎないんです。
武満 われわれがいま話している主題は、哲学の領域で取り扱われなければならないものだろう思いますが、さきほどから口にされているリアリティ、現実ということについて、もう少しうかがいたいな。
シルヴィアン 人生というのは若いときにいろいろなことを学んで、どんどん外的世界からいろいろ学んでいくのですけど、ある時期から外的世界から離れたところに自分の感情とか夢を投影させて、そして幻想的な世界のなかに入っていくことがあると思います。そして、小さな事件とか出来事とか体験によって、人生がまったく変わってしまうとか、自分のものの見方がまったく変わってしまうことがあります。いつも現実、自分の実際に住んでいる世界、あるいは自分の外にある外的世界と自分の内面世界とのあいだを自問自答して、意識して、その自問自答をくり返すことによって、自己意識というものに到達すると思うのですが、芸術が社会に何かの役割をもつとすれば、人々に自分の内面的な自己の存在を意識させ、自分の内面的なものを変えることを示唆できるのではないかということだと思います。そうすると、人間としてもっと人間らしくなれる。もし個々の人間が社会の小宇宙だとすれば、個々の人間が変わらなければ社会も変わらない。個人が変わることか社会も変わると思います。
もっと簡単な言い方をすれば、現実というのは自分が何者であり、自分が誰であるかということを完全に受け入れることだと思います。ほとんどの人間はそれを認めることができず、拒絶し、そして恐怖する生活をくり返していると思います。
武満 それはぼくの感じ方と近いようですね。些細なことですが、ぼくはことば遣いで「考え方」ということばはあまり好きでない。「感じ方」、「感じる」というほうが好きです。
最近あなたの友人の坂本龍一さんがどこかの雑誌に書いたものを読んでいたら、デヴィッドがとってもニューオリンズがおもしろいといっているとあって、それはきっとおもしろいに違いないと思ったのです。でも実はまだニューオリンズに行ったことないんです。このあいだセントルイスへ行ったから、わりあい近いんですよね、ちょっと南へ下れば。でも残念ながら時間がなかった。デヴィッドがおもしろいと言っていたというから、ぼくも行きたいと思ったんだけど。セントルイス・ブルースで終わってしまったんだけれど(笑)、どこがおもしろかったの?
シルヴィアン 3日間しか行かなかったので、たいへん表面的な知識しかないんですけれども、音楽が生き生きとしていました。どこに行っても、非常に落ちぶれたようなクラブに行ったり、どんな怪しげなナイトクラブに行っても、そこにいる音楽家が一生懸命音楽を演奏していたんです。その生き生きとした音楽がすばらしかった。
それから、ちょうど線路の近く、芝生のなかに寝転がっていたんですが、そのときに音楽が聞こえてきて、ヒスパニック系の音楽家がスチールドラムを演奏して、黒人の音楽家がコンガを演奏していた。それがあまりにも完全というか、すばらしい出会いだったので、印象深かったです。ニューオリンズには強い精神があって、魂があると思います。残念ながらアメリカのほとんどには魂が見当たりません。
武満 そう、ウィーンで、ムジーク・フェラインのすばらしい金色のホールで、どこかの演奏家たちがやっているけど、その多くは何とも怠惰な音楽で、きっとそれとはきわめて対照的なんですね。

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武満徹

魂としてのインスピレーション
シルヴィアン 音楽というのは非常に単純な、そして真実を伝えるメディアだと思います。音楽をごてごてといろいろな飾りで飾りつけると、かえって卑下してしまうことになる。音楽はだれでもアクセスできる非常にシンプルなもので、そこに音楽の力があると思うのです。それを台座の上に乗せてしまったり、あるいは大げさに扱ってしまうと、音楽を木から吊るすようなものですね。
武満さんは視覚芸術、美術が非常に好きだとぼくは考えていますし、ほかのどの芸術形態よりも美術からインスピレーションを得ていると――僭越かもしれませんが、そういう印象を享けています。もちろんジェームス・ジョイスにインスピレーションを受けた作品もありますから、文学も好きだと思いますが、やはり美術がいちばん好きですか?
武満 そうですね、正直に言って、ぼくはかなり美術からインスピレーションを得ています。昔、若いころ、パウル・クレーを見たり、ヴォルスのペン画を見たりすると、ほんとうに何か呼びさまされるというか、言い表せないほどの強い印象を受けて、そしてそれが何なんだろうと考え、その経験をほんとうに自分のなかに内面化する、視覚的なものからある時間を経て内面化された音楽的なプランを、どのように具体的な音であらわすか……。その感動、それこそぼくにとってのリアリティということだと思うけれど。
ぼくはいままであまりこんな話したことはないんですが、たとえば絵を見て、線を見たときに、ぼくは、ある種の精神的な禁欲的なものを感じるんです。そして、色彩を見るときにはセンシュアルな官能的なものを感じる。もちろんある画家たち、たとえばイブ・クラインとか、サム・フランシスであるとか、ポール・ジェンキンスのように、色彩だけで絵を描く人もいるけれども、だいたいは線と色彩が絵画としてのフォームを形づくっていく。比喩的にいえば、矛盾するようだが、禁欲的なものとセンシュアルなものがひとつのハーモニーをつくっていく。ぼくぼ耳のなかにそういうハーモニーが聞こえてくる。外国の評論家などは、ぼくのはスクリアビンやメシアンのようにセンシュアルなハーモニーだというけど、そうじゃなくて、ぼくのハーモニーは、禁欲的なものとセンシュアルなものが同時にある運動体としてのハーモニーだと思っている。
シルヴィアン インスピレーションの話で思い出したんですが、たしかコクトーは次のようなことを言っていました。経験をどんどん積み重ねていって、いろいろな体験でいっぱいになってしまう。しかしそれをどこかで解き放つ時期を待っていて、インスピレーションはきっかけにすぎないもので、ビンのふたをとるようなものだ、と言っていたと思います。
ぼくは、視覚芸術にそういったインスピレーションを得ていますが、何かからインスピレーションを得ると言うと、誤解する人が多くて、その本を読んだり、その絵を見たりして、急にそれをもとにして何かをつくり出すと思う人がいるのですが、そうではなくて、自分の感情なり、概念なり、知的な観念とか、そういうものがきっかけを待っているわけです。その待っていたものを解き放してくれるものがインスピレーションだと思います。
武満 まったくその通りですね。よく“パウル・クレーの絵画による5つのオーケストラ・ピース”というような作品を書いたりする作曲家もいるけれど、ぼく自身はパウル・クレーの絵画から直接にそんなことは到底考えられないですね。インスピレーションというものは、いまデヴィッドが言われた通りだと思う。
あるたいへん惹きつけられるタブローの前に立って、なぜここで自分がこんなにも長い時間立ち停まっているんだろうということから始まって、やがて向こうから呼びかけてくるものがあると、つまり自分のなかで、彼が呼びかけてきているものに何か答えたいというものが感じられて、応答がはじまると、それはそれまで自分では明瞭に縁をつけられなかった――縁をつけるというちょっと便法上でよくないかもしれないが――自分のなかに溢れようとしているものが、ほとんど気持ちよく溢れ出て行くんですね。そしてそれは鏡のようになって、また新しい問い、新しい答えを準備しなければならないのだろう。
シルヴィアン ぼくもそう思います。
(続く)

今日のCM
BOE 8K Display

曲名、アーティスト名ともに不明です
ご存知の方はご一報ください


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