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カルメンはいつだって自由なのさ [ブック]




寂しい谷間にさしかかっておりました。私は馬をとめました。「ここなの?」女はそう言って、ひらりと地面におりました。そしてマンティーリャ(女性用の大きなショール)をぬいで足下に投げつけ、片方のこぶしを腰にあてると、そのまま身じろぎもせず、私をまじまじと見つめるのです。「あたしを殺そうと思っているね。見ればわかるのさ」女は言いました。「占いに出ているんだもの。でも、あたしゃおまえさんの言いなりにはならない」
「お願いだ」と私は言いました。「理屈をわかっておくれ。おれの話を聞いてくれ! おきてしまったことは全部水に流す。だけどなあ、わかっているだろ、おれの一生を台なしにしたのはおまえなんだ。おまえのために、おれは泥棒になり、人殺しもやった。カルメン! 私のカルメン! あんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょに私の身も救えるようにしておくれ」
「ホセ」彼女は答えました。「おまえさんの話はできない相談ってものなんだよ。あたしゃもう、あんたには惚れてはいないんだ。で、あんたのほうは、あいかわらずあたしに惚れている。だからあたしを殺そうとしているんだろう。もうちっと嘘をつきとおしてみてもいいけどさ。でもねえ、わざわざそんなことをやるのも疲れちまったよ。あたしたちの仲はすっかりおわったんだ。おまえさんはあたしの亭主(ロム)なんだから、おまえさんの女房(ロミ)を殺したらいいんだよ。でも、カルメンはいつだって自由なのさ。カーリ(ジプシーの女)と呼ばれる女に生まれたんだ、カーリのままで死なせてもらいます」
「じゃ、おまえはルーカスに惚れているのか?」私は訊ねました。
「そうさね、あいつに惚れたよ。あんたに惚れたみたいにね、ほんのしばらくさ、それもたぶん、あんたのときほどじゃない。今じゃあ、なんにも好きでなくなったよ。おまえさんに惚れた自分も、つくづくいやになった」
私は女の足下にひざまずきました。女の両手をとって、自分の涙でぬらしました。ともにすごした幸福なときを、ひとつひとつ思い出させようとしてみました。それで気に入るんなら、このまま盗賊でいたっていいとまで言いました。なんでもやる、そう、なんでもやる! この私を好いてくれるのならば! そうまで言ったのです。
女は言いました。「好いておくれったって、それはできないよ。いっしょに暮らしてくれったって、それはいやなんだよ」凶暴な怒りが私をとらえました。私はナイフをぬきました。女がおびえて、赦しをもとめてくれればよいのにと思いました。だがあの女は悪魔でした。
「最後にもう一度きくぞ」私は叫びました。「おれとやってゆく気はないか?」
「いやだ! いやだ! いやだ!」地団駄をふみながら女は言いました。それから、昔私がやった指輪をぬきとって、藪に投げこみました。
二度、私はあの女を刺しました。

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工藤庸子 『フランス恋愛小説論』 岩波新書
恋愛はいかに書かれてきたのか。「明晰な心理描写」を伝統とする名作群から、『クレーヴの奥方』『危険な関係』『カルメン』『感情教育』『シェリ』をとりあげ、サロン、手紙、寝室の機能、プライヴァシーやジェンダーの成り立ちなど、作品の背後に広がる時代と、そこを源泉とする感情やふるまいの描写の妙を教える、新鮮な古典案内。

筆者は「ささやかな小説論」と謙遜していますが、登場人物が表出する感情やふるまいの意味を、作品の背後に広がる時代から解き明かしていく手法は、なかなか鮮やかです
後書き(「おわりに」)によると、プルースト以降、いや、フローベール以降、文学作品を作家の個性の反映、特殊性の産物として単純に捉えることは難しくなったそうで、本書ではそのために作品から時代を経由して作家へという展開、W.S.モームが『世界の十大小説』で行ったような、作家から作品へという論述とは逆向きの展開になったのだそうです
興味を持たれた方は、ぜひ本書を読んでみてください
なお、「おわりに」では、「中、高等学校も、大学もある本(原典)について書かれた本は、それが問題にしている原典より多くを語ることはありえないという事実を理解する場所であってほしい。」というイタロ・カルヴィーノの言葉が引用されているので、その言葉を免罪符にして(筆者自身の名訳で)原典を長文引用させていただきました

主人公ドン・ホセが、イギリス人士官の囲い者になったカルメンと再会する場面もどうぞ

鎧戸が半開きになっており、私を待ち受ける女の黒い大きな目が、こちらをうかがっているのが見えました。髪粉の従僕が、すぐなかに入れてくれました。カルメンはその男を使いに出しました。そして私たち二人きりになると、例によって不実な女のころげるような笑い声をあげ、私の首ったまにかじりついたのです。あの女があんなに綺麗だったことはありません。聖母さまのように飾りたて、香水をふりかけています……家具は絹張り、カーテンには刺繍がしてあります……ああ!……それなのにこの私ときたら、泥棒の風体で、またじっさいにそうなのです。「ミンチョルロ(愛しい男)!」カルメンは言いました。「ここにあるもの全部をぶち割って、家に火をかけて、山のなかに逃げちまいたいよ」なんて愛しい愛撫だったでしょう!……それから笑いこけて!……そして踊りくるって、フリルをひき裂いて。猿だってやらんでしょう、あんなに羽目をはずして、しかめっ面して、はしゃぎまわるなんて。

同じファム・ファタール(宿命の女)でも、小娘サロメなら(『道成寺』の清姫も)、相手構わぬ一途の恋は、脅威ではあるものの、何とか対応が可能です
しかし、カルメンになると、自由奔放で変幻自在、予測不能の恐ろしさで…もう無条件降伏するしかありません

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メリメ 『カルメン
学生時代に岩波文庫(杉捷夫訳)で読みましたが、この不条理な悲恋物語を理解できていたかは、定かではありません

今日の1曲
Chica Chica Boom Chic 「チカ・チカ・ブン・チック」/ Carmen Miranda
http://www.youtube.com/watch?v=KHJLm6WNEv4
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ブラジル最高の歌姫 カルメン・ミランダ 1939-1950

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